真言宗 正覚院

〒824-0021 福岡県行橋市字馬場420-1
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正覚院の教え

正覚院の教えは『真言密教(真言宗の教え)』です。

真言宗の教え(真言密教)
  真言宗は、弘法大師(空海)の立教開宗による、仏教の教えを説く密教の宗派です。

密教は弘法大師によって、平安時代の初めに中国から日本に伝えられました。密教の根本の仏様は宇宙の本体であり絶対の真理である「大日如来」です。

真言宗の根本の教えは大日如来の智恵に目覚めるために、次のことを求めます。

菩提(ぼだい)の心を発し、仏の誓願を堅く信じ、すべてのものの本性(ほんしょう)が清浄(しょうじょう)な心であることをありのままに知ることを求めます。この世のすべてのものを愛する心と真実を求める心を堅く持って、行いと言葉と心のすべての働きを通じて、真理を悟り、実現する仏の智恵に気づくこと

大日如来図
空海とは

一、御誕生

弘法大師・空海は、宝亀(ほうき)五年(774年)六月十五日、讃岐国の屏風ガ浦(現在の香川県善通寺市)にお生まれになりました。名を真魚さまといい、父は、讃岐のの郡司の家系に生まれた佐伯値田公(さえきのあたいたぎみ)、母は、玉依御前(たまよりごぜん)といいます。その家は、信仰心の厚い家柄でした。ある日のこと、お父様とお母様が、「天竺(インド)のお坊さんが紫色に輝く雲に乗って、お母様のふところに入られる」という夢を同時に見られ、真魚さまがお生まれになりました。

二、幼年、青年期

真魚さまは七歳の時、近くの捨身ガ嶽(しゃしんがだけ)に登り「私は大きくなりましたら、世の中の困っている人をお救いしたい。私にその力があるならば、命をながらえてください」と仏様に祈り、谷底めがけて飛び降りました。するとどこからともなく美しい天女が現れ、真魚さまをしっかりとうけとめました。真魚さまは、大変喜んで一層勉強にはげまれました。  真魚さまは、十四歳まで讃岐で勉強されましたが、十五歳の時に都(長岡)に上り、叔父の儒学者阿刀大足(あとのおおたり)について文章などを学び、十八歳の時に大学に入学しました。大学では学問に疑問を感じるようになり、次第に仏教に興味を持つようになりました。そして、御仏の道の修業を始められた真魚さまは、間もなく大学を去り、各地の霊所を求めて修業を続けられました。そうして、ついに出家することを決心し、二十歳の時、和泉国(大阪)槙尾山寺(まきのおさんじ)において勤操大徳(ごんぞうだいとく)を師として得度し、名を教海(きょうかい)とされたといわれています。後に如空(にょくう)と改め、身も心も御仏のお弟子となられました。  二十二歳の時、名を空海(くうかい)と改められたお大師さまは、奈良の東大寺大仏殿にて「この空海に、最高の教えをお示しください」と祈願されました。すると、ある夜、「大和高市郡(やまとたけちのごおり)」久米寺の東塔の中に、汝の求めている教方がある」という夢のおつげにより、仏教の究極の教えである密教を説いたお経『大毘盧遮那成仏神変加持教』(だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう=略称『大日教』)にめぐりあいました。しかし『大日教』を読んでもその意味は十分にわからず、かといって、その疑問に答えてくれる師は日本にいません。そこで師を求め、唐(現在の中国)の都・長安へ留学することを決心なされました。

三、入唐

唐(中国)に名僧のおられることを聞いたお大師さまは、三十一歳の延歴を二十三年(804年)七月六日、肥後(長崎)の松浦郡田の浦から留学僧として遣唐使の一行と共に遣唐船に乗り長安をめざしました。海上での暴風雨、長い陸路の旅など幾多の苦難に遭遇しますが、出航し半年後、やっと唐の都・長安に到着しました。長安では密教の師を求めて諸寺を歴訪し、ついに、正統な密教を受け継ぐ唯一の僧侶、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)にめぐりあいました。恵果阿闍梨は、正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧でした。恵果阿闍梨は、自らが受け継いだすべての教え、そして密教の奥義を余すところなくお大師さまに伝え、遍照金剛(へんじょうこんごう)の法号を授けられ、お大師さまは密教の正統な後継者(第八祖)となられました。すべてを伝えた恵果和尚は「一刻も早く日本に帰り、密教を広め人々を幸福にするように」とお大師さまに遺言なされ。延歴二十四年(805年)十二月十五日、大勢のお弟子に見守られて、お亡くなりになりました。お大師さまは二十年間の留学僧としての勤めを二年足らずで切り上げ大同元年(806年)八月、明州(みんしゅう)から日本に帰ることになりました。

四、帰朝後

帰朝後は、恵果阿闍梨の教えどおり真言宗を立教開宗し、京都の教王護国寺(東寺)、和歌山の高野山を拠点として活躍しました。その活動は、宗教活動はもとより、社会活動や文芸活動、書など多岐にわたり、偉大な足跡を残されたのでした。そして承和(じょうわ)二年(835年)三月二十一日、高野山で六十二歳のご生涯を終え、入定されたのです。

空海

五、空海の代表的な功績

○満濃の池の改築

讃岐国(香川県)に、満濃の池という池があり、雨の少ない讃岐では、田畑を潤すのに大切な池ではありましたが、国の役人や技師が何千人という人を使って何度も改築しても、雨が降ったり、風が吹くと決壊するので、農民たちは困っておりました。弘仁十二年(821年)天皇は太政官部(だじょうかんぶ)を下し、土木技師にも優れていたお大師さまに、満濃の池改築の責任者を依頼されました。お大師さまが讃岐へ着任されると、そのお徳をしたって大勢の人々が改築工事に加わり、僅か三ヶ月程で難工事は」完成し、大風雨にも決壊しなくなりました。今でも、この地方の人たちはこのお蔭を大変喜んでおります。

○神泉苑(しんぜんえん)の雨乞い

天長元年(824年)二月、日本中が大日照りとなり、穀物はもとより、野山の草木もかれ果てて、人々の苦しみは大変なものでした。この時、お大師さまは淳和天皇(じゅんなてんのう)の詔により、八人の弟子と共に宮中の神泉苑で雨乞いの御祈祷をされました。すると善女竜王(ぜんにょりゅうおう)が現れ、三日三晩甘露の雨を降らせたので、生物はよみがえり、草木は生色をとりもどしました。

○綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)といろは歌

お大師さまの当時、一般の人たちが勉強する学校はありませんでした。お大師さまは、誰でも勉強できるように、天長五年(828年)十二月、京都に綜芸種智院という学校をお創りになりました。また当時の学校で習う文字は、ほとんど漢字で小さな子供たちには、読み書きは難しかったので、お大師さまは子供たちにもわかる言葉で、お釈迦様の「四句の偈(しくのげ)」を、四十八文字のかな文字にして教えられました。それが「いろは歌」です。

○四国八十八ヵ所の開創

お大師さまは若いころ、阿波(徳島)の大瀧ガ嶽や土佐(高知)の室戸崎で修業されました。その因縁で四十二歳の時、土佐、伊予(愛媛)、讃岐(香川)の四ヵ国を御遍歴になり、各地でいろいろな軌跡、霊験をお残しになり、また、お寺やお堂を建立されて、四国八十八ヵ所の霊場を開かれました。

◆醍醐派とは

醍醐寺は空海の孫弟子、聖宝理源大師が貞観十六年(874年)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まる。そののち醍醐・朱雀・村上三帝のご信仰がよせられ、延喜七年(907年)には、醍醐天皇の御願による薬師堂が建立され、五大堂も落成するに至って上醍醐の伽藍が完成した。それに引き続くように下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長四年(926年)に釈迦堂が建立され、ついで天歴五年(951年)に五重塔が落成し。下伽藍の完成を見た醍醐寺はその後、真言宗小野流の中心寺院として仏教史において重要な地位を占めている。そればかりでなく、政治の中心にあった人達との交渉も深く、例えば藤原の一族に代わって大きい権力を持っていた権門源俊房の系統(醐醍源氏)の人が座主として幾代も続いた。そして座主勝覚(俊房の息子)の時代に山上・山下共に伽藍がことごとく整備され、永久三年(1115年)に三宝院が建立され醐醍寺発展の基礎が確立されたのである。